「インキタトゥス」と呼ばれた馬の悲劇:カリグラ皇帝の狂気か、それとも?
ローマ皇帝の愛馬が「執政官」に? 信じがたい物語
古代ローマ帝国。広大な世界を支配し、皇帝が絶大な権力を握っていた時代。そんな中、一つの奇妙で衝撃的な噂が都ローマを駆け巡りました。「皇帝陛下が、ご自身の愛馬を、共和国時代からの最高職である執政官(コンスル)に任命しようとしているらしい」と。
馬が、人間の、それも国家の最高職に就く? まるで冗談のような話ですが、これは実際に時の皇帝カリグラが計画していたと言われる、歴史上最も奇妙なエピソードの一つです。彼の治世は、その異常な振る舞いや残酷さから「狂気」と評されることが多いのですが、この「馬を執政官に」という話の裏には、単なる狂気では片付けられない、当時のローマ社会や皇帝の心理が見え隠れします。
今回は、この信じがたい物語の主人公となった一頭の馬と、彼を寵愛した若き皇帝カリグラ、そして彼らを取り巻くローマの空気について、歴史の扉を開けて覗いてみましょう。
皇帝に愛されすぎた馬「インキタトゥス」
この物語の主人公(?)は、インキタトゥスという名の競走馬です。ローマ時代、競馬は大変な人気を博しており、皇帝もまた熱狂的なファンでした。カリグラも例外ではなく、特にインキタトゥスを深く愛しました。
カリグラはインキタトゥスのために、常軌を逸した贅沢を与えたと言われています。大理石の厩舎に、象牙でできた飼い葉桶。紫色の高価な毛布に、宝石で飾られた首輪。まるで人間以上の扱いを受けていたのです。客人をもてなすかのように、インキタトゥスを食卓に招き入れ、金の杯でワインを飲ませたという逸話さえあります。
さらに、インキタトゥスがレースで疲れないよう、レース前夜には皇帝自らが静かに過ごすよう命じ、騒がしくする者は罰せられました。彼がどれほどこの馬を溺愛していたかが分かります。
狂気か、あるいは痛烈な皮肉か:執政官任命計画
カリグラのインキタトゥスへの寵愛は、やがて政治の舞台へと及びます。彼が「インキタトゥスを執政官に任命する」という計画を口にした、あるいはその準備を進めたという記録が、古代の歴史家たちによって残されています。
執政官(コンスル)とは、共和政ローマ時代から続く最高位の官職で、元老院のトップとして、軍事・政治の最高決定権を持っていました。皇帝時代になってもその権威は残っており、名門貴族や実力者が就くべき、最も栄誉ある地位でした。
そんな、ローマの誇りとも言うべき地位に、馬を就かせようとする。これは、当時のローマの政治エリートたち、特に元老院の議員たちにとっては、衝撃であり、同時に皇帝への深い侮辱でした。
なぜカリグラはこのような計画を立てたのでしょうか? 最も単純な解釈は、「皇帝の狂気」です。彼の治世の後半は、気まぐれで残酷な行動が目立つようになり、多くの人が彼の精神状態に疑いを持っていたからです。
しかし、別の見方もできます。当時の元老院は、名ばかりの存在となり、皇帝の意向に逆らえなくなっていました。カリグラは、無力化した元老院や、形骸化した執政官の地位を嘲笑し、その無意味さを極端な形で示すために、この計画を実行しようとしたのかもしれません。「お前たち人間よりも、私の愛馬の方がよっぽど価値がある。あるいは、お前たちと同じくらいには、馬でも執政官の務めは果たせるだろう」という、痛烈な皮肉だった可能性も指摘されています。
あるいは、単なる気まぐれで、自身がどれほど絶大な権力を持っているかを示すためのパフォーマンスだったのかもしれません。皇帝の言葉一つで、どんな不合理なことでも現実になり得る、という恐怖を周囲に植え付けるためだったとも考えられます。
いずれにせよ、この計画はローマ中に戦慄と困惑をもたらしました。権威ある元老院議員たちが、馬と同格とされる寸前だったのです。
馬が執政官になることはなかった、その後のインキタトゥス
結局のところ、インキタトゥスが正式にローマの執政官に任命されることはありませんでした。カリグラは、この計画を完全に実行する前に、西暦41年に暗殺されてしまうからです。
皇帝を失ったインキタトゥスがその後どうなったのかは、歴史家によって記述が分かれています。ある記録では、贅沢な生活は終わり、普通の馬に戻されたとされています。また別の記録では、カリグラの死後、彼の狂気の象徴として殺されたとも言われています。しかし、正確な最期は定かではありません。
「インキタトゥス、執政官になりかけた馬」のエピソードは、単に歴史上の奇妙な話としてだけでなく、絶対的な権力を持つ者の異常な振る舞い、形骸化した制度への皮肉、そして権力に翻弄される人々の姿を映し出していると言えるでしょう。
歴史は、教科書に載っているような大きな出来事だけでなく、こうした一見小さな、しかし人間味あふれる(あるいは、人間離れした)エピソードの積み重ねによってできています。カリグラとインキタトゥスの物語は、そんな歴史の面白さと、権力の持つ危うさを私たちに教えてくれているのかもしれません。