歴史エピソード図鑑 ~物語編~

歴史上最も奇妙な裁判:腐敗した教皇の遺体が裁かれた日

Tags: 歴史, 教皇, 中世, 遺体裁判, 奇妙なエピソード

歴史に埋もれた奇妙な物語

私たちの知る歴史には、教科書には載らないような、驚くほど奇妙で、時には背筋が凍るようなエピソードが数多く存在します。中でも、中世ヨーロッパの混乱期にローマで実際に起きたある裁判の話は、聞く者の耳を疑わせるほど異様です。

想像してみてください。厳かな雰囲気の法廷に引きずり出されたのは、生きた人間ではありません。それは、埋葬されてから長い時間が経ち、腐敗が進んだ一体の「死体」だったのです。そして、この死体に対して、尋問が行われ、判決が下されるという、信じがたい光景が繰り広げられました。

一体なぜ、このような異常な裁判が行われたのでしょうか? それは、教皇の座を巡る、血みどろの権力争いがもたらした、歴史の暗部に刻まれた物語です。

舞台は9世紀末のローマ:混迷を極めた教皇庁

物語の舞台は、9世紀末のローマです。この時代、西ローマ帝国は滅亡しており、フランク王国の分裂など、ヨーロッパ全体が政治的に不安定な時期でした。イタリア半島も例外ではなく、様々な勢力が覇権を争う中で、ローマのカトリック教会、特に教皇庁は、世俗権力と密接に結びつき、激しい権力闘争の中心地となっていました。

教皇の地位は、単なる宗教的な指導者というだけでなく、広大な領地を持つ有力な君主としての側面も持っていました。そのため、有力貴族や政治家たちは、自らの影響力を強めるために、教皇の座を巡って激しい争いを繰り広げていたのです。教皇が短期間で交代したり、暗殺されたりすることも珍しくありませんでした。

そんな激動の時代に、今回の主人公とも言える二人の教皇がいました。一人は先代教皇であるフォルモスス。もう一人は、その後に教皇となったステファヌス6世です。

フォルモススは有能な人物と評されており、かつては外交官としても活躍しました。しかし、彼はそのキャリアの中で、教会内の対立する派閥と激しく衝突した過去を持っていました。一時的に破門されたこともありましたが、後に許されて教皇の座に就きます。彼の教皇在任中、彼は特定の政治勢力(主に東フランク王国のアルヌルフ)と良好な関係を築き、それが彼の政敵たちの反感を買うことになります。

そして、フォルモススが死去し、ステファヌス6世が教皇に就任すると、事態は一変します。ステファヌス6世は、フォルモススとは敵対する派閥に属していました。彼は、先代教皇フォルモススに対する激しい憎悪と、彼が築いた政治的な影響力を完全に排除したいという強い願望を抱いていたのです。

埋葬された教皇、法廷へ引きずり出される

ステファヌス6世の憎悪は、常軌を逸した行動へと彼を駆り立てました。なんと彼は、フォルモススが亡くなってから約8ヶ月が経過していたにも関わらず、彼の遺体を墓から掘り起こすよう命じたのです。

そして西暦897年1月、ローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に設置された法廷で、歴史上最も奇妙な裁判が開かれました。この裁判は、その異様さから後に「屍体裁判(Syanodus Horrenda)」、つまり「身の毛もよだつ教会会議」と呼ばれることになります。

法廷には、教皇の祭服を着せられ、椅子に座らされたフォルモススの遺体が運ばれてきました。遺体はすでに腐敗が進んでおり、とても正気とは思えない光景だったことでしょう。ステファヌス6世は裁判長として、この腐敗した遺体に対し、生前の罪や教皇就任の不当性について問い詰めたと言われています。

もちろん、遺体が答えるはずもありません。そこで、この異常な裁判には、遺体の「弁護人」役として、恐怖で震える一人の助祭が立たされました。しかし、この弁護人にできることは、全くありませんでした。助祭は、ただ遺体の代わりに、ステファヌス6世からの詰問を聞くだけだったのです。

裁判は一方的に進められました。ステファヌス6世と彼に従う聖職者たちは、フォルモススの教皇就任は正当な手続きを経ていない、彼が行った全ての叙任(聖職者に位を授けること)は無効である、といった罪状を次々と読み上げました。遺体は沈黙していましたが、それは「罪を認めた」と解釈されました。

衝撃の判決と遺体の末路

そして、この異常な裁判には、さらに衝撃的な判決が下されました。教皇フォルモススは有罪とされ、彼が教皇として行った全ての聖務と叙任は無効とされたのです。

判決が下されると、遺体から教皇の祭服が剥ぎ取られました。さらに、生前に聖務を行う際に誓いを立てた際に使用されたとされる右手の指三本が、斧で切り落とされました。これは、フォルモススが神への誓いを破ったこと、そして彼の行った聖務が全て無効であることを象徴する行為だったと言われています。

そして、無残な姿となったフォルモススの遺体は、ローマを流れるテヴェレ川に投げ捨てられました。歴史に名を残した一人の教皇が、死してなお、これほどまでに屈辱的な扱いを受けたのです。

この裁判の目的は、単に故人を罰することではありませんでした。真の目的は、フォルモススが教皇時代に行った人事や決定を全て無効にし、彼によって叙任された聖職者たちを追放し、ステファヌス6世とその派閥が教会内で権力を完全に掌握することでした。まさに、政治的な権力闘争の道具として、死者まで利用された極めて冷酷な事件だったのです。

事件がもたらしたもの

しかし、このような異常な行為は、ローマ市民や一部の聖職者たちに強い衝撃と反感を与えました。死者を冒涜するような行為は、当時の感覚からしても許容できるものではなかったのです。人々の怒りはステファヌス6世へと向けられました。

結局、屍体裁判からわずか数ヶ月後、ステファヌス6世は市民の暴動によって捕らえられ、投獄されて絞殺されてしまいます。さらに、彼の後任の教皇たちは、この裁判を無効とし、フォルモススの遺体をテヴェレ川から引き上げて改めて埋葬し、彼の名誉を回復しようとしました。

この一連の出来事は、9世紀末から10世紀にかけての教皇庁がいかに腐敗し、世俗的な権力闘争に明け暮れていたかを示す、痛ましいエピソードとして歴史に刻まれています。また、法や正義が、個人的な憎悪や政治的な都合によっていかに容易く歪められてしまうかということを、極端な形で私たちに教えてくれます。

教皇フォルモススの屍体裁判は、人間の権力欲がもたらす狂気と、歴史の片隅に忘れ去られがちな、信じがたい真実を今に伝えているのです。


参考文献:

記事内容は一般的な歴史的解釈に基づいています。専門的な研究においては異なる見解が存在する可能性もあります。